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株式会社 九鏡

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鏡四方山話07庚午話

「天神」と「鏡」
その二

鏡天満宮由来書

「奢れるもの久しからず」の右代表といわれる方「平清盛」公にいきなりご登場願うのですが注1)、この方は「富を築く」のに大変熱心な方で、とりわけ外国貿易、特に「対宋貿易」にはことのほか力を入れられた模様。そのため「兵庫」の「福原」をりっぱな港になされたのですが、大陸との地理関係を考えると「九州」はやはりどうしても避けて通れぬところ、「九州」といえば、やはり「博多」が最適、とお考えになったようで、その頃の「博多」は今とはずいぶん違って、中心部に大きな「入海」(入江、湾)があり、ここの形が「袖」(当時の「袖」は今の「袖」とはかなり違うようですが)に似ていたので、築港した後に正式に「袖港」(そでのみなと)として、「唐船」との取引窓口として活用なされたようです。ただ、「菅公」が上陸なされた時代は、これより二百六~七拾年遡りますので、多分その当時は「袖港」は通称のようなものだったのでしょう。

注1)「清盛公」にかぎらず、「平家一門」は、とくに「壇ノ浦の戦い」ののちは九州各地と深い繋がりがあるようです。ちなみに、「清盛公」のご長男の「重盛公」は、若くして他界なされましたが、その御内室とお嬢様お二人は、糸島(現二丈町)の「唐原(とうばる)」に隠れ住んでおられましたし、「清盛公」の弟君の「家盛公」は、さらに西へ逃れて、五島列島の「宇久島」(現長崎県宇久町)へとお渡りになり、その御子孫はやがて、五島の長(五島藩主)とおなりになったようです。そのほかにも九州各地にはいわゆる「落人伝説」といわれるもの以外にも「平家一門」と深い縁のおありの方々が多数いらっしゃるようです。

さて、「元禄」の頃、「泉州堺」(「吹き屋」の本場)出身の「河辺某」というひとが「鏡」を一枚寄納して、「山伏」の「金寿院」という方が「菅公」の御霊をお慰めするために「川端町」の一角に建立したのが「鏡天満宮」、なぜ「鏡」かは先の「水鏡天満宮」と同じ理由のようです。ただ、写真の「由来書」とは、ほんのすこし違うところもありますが。

「菅公」の御霊は、「くわばら」の言い伝えがあるように、人々からたいへん恐れられていたようです。

後には「博多川畔」へ移り、博多大空襲で焼失したりして何度も建て替えられ、今ではすっかり新装宮社殿になりました。すぐ傍には某一流ホテルやら国内一のブランド専門店街があったりして最高に恵まれた環境に鎮座されております。

この「鏡天満宮」の傍らに「渡唐口」(ととうぐち)の石碑がありますが、この「渡唐口」というのは、かなり早い時期(すでに「豊臣秀吉公」の「博多街割り」の頃には)「袖港」は埋め立てられていて、その代替桟橋的存在だったようです。「渡唐口」の一角に「鰯町」(いわしまち)があったのですが、いまでは市道になって、歩道の上には博多名物の「屋台」がずらり。博多の繁栄にはしっかり貢献しておられます。

「宝暦二年七月この町名藩許となる七軒魚問屋があり、博多繁昌の一翼をになう」とあります。
(「宝暦二年」とは、西暦1752年)
博多川の右岸一帯(現須崎町)が「旧上鰯町」です。
(昔この「鰯町」で生れたとが居るとか居らんとか・・・誰かいね?)

[「鏡」が「天神様」と因縁が深いとなれば、われわれ「鏡関係者」はしっかり稼いでもっと「天満宮」にお参りして、ご喜捨せねばいかんと思うのですが・・・

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菅公のお詠みになった歌
「鏡にもなきつみとかは見えやらで
やつれすかたのかすむ春かな」

06己巳話「天神」と「鏡」06己巳話「天神」と「鏡」

08辛未話「綱」で「敷物」08辛未話「綱」で「敷物」