”「鬢(びん)鏡」ちゃあ何ですなあ?”
その昔(天文十八年(1549年))、彼のフランシスコ・ザビエルさんが長崎にて大内善隆(周防・山口藩)に贈ったもののひとつに小さな手鏡があり、それを以後「鬢鏡」と称したようで、これ自体は貴重品以外のなにものでもなかったようで・・・
天正十年の九州の三大名の使節がローマへ行ったときのお土産記念品の中にヨーロッパ製の鏡四枚とガラス器具があり、持ち帰ってはみたものの、これも貴重品。
長崎にはいちはやくガラスの製造法が伝っていたようで、享保年間には、長崎から来た職人によって泉州・堺にはガラスの精錬所(「吹き屋」)が開設されていた模様。
やはり長崎はすごいなあ・・・と実感。でも、堺には負けた!
この享保以降「鬢鏡」が徐々に一般化して、鏡の大衆化に繋がっていったのでしょう。
「鬢」とは、「鬢のほつれ毛」とか「鬢付け油」とかの「鬢」。
昔の人は「鬢」の乱れを一番に気にしたのでしょうか。それでも、「鬢鏡」がどこにでもあったというわけにはいかないようで、「髪結い」さんとか「歌舞伎役者」やお相撲さんの仕度部屋とか、あるいは大名の奥方の化粧部屋とかかなり限られた階層の人たちの、しかもビジネス・ツールの一部として使われたようです。鏡の業務的使い方のルーツでしょうか。
それ以前には、「唐鏡」という金属製の鏡ばかりを使っていたようで、「かがみ磨ぎ(とぎ)」という職業人(職人)までいたようで。
ついでながら、昔「磨板(みがきいた)」という種類の銀引専用の板ガラスがあったけど、どこに消えたのやら・・・フロート板万歳!